武士道 第17章


第17章 武士道の未来

・武士道が迎えた大きな危機
ヨーロッパの騎士道と日本の武士道を歴史的に比較すると、これほど似ているものは、世界史上でも稀なのではないかという気がします。
もし歴史が繰り返すとすれば、武士道の運命は、騎士道がたどってきたのと同じ道を歩むことになります。
ヨーロッパと日本が経験したことで、最も顕著に異なっているのは、ヨーロッパの騎士道は封建制度から引き離され、教会に引き取られることによって、新しい生命の葉を得たことです。
日本には、武士たちを養うのに十分な宗教がありませんでした。
だから封建制度という「母なる制度」がなくなったとき、武士道は孤児として置き去りにされ、自力で生きていくしかなかったのです。

すでに武士道に対しては、様々な権力や勢力が対抗しています。
民主主義が押し寄せてくる流れは抵抗しがたく、いかなる形の特権集団をも許しません。
そして武士道は、知識と文化を十分蓄えた権力を独占した人々によって組織された、特権集団の道徳精神だったのです。
現代社会が目指すのは統合であり、「特別な階級の利益のために設置された、あくまで個人的な義務」は容認できません。
ドラや太鼓の音とともに世界に登場した道徳は、「将軍も去り、王者も去ってしまった」とソフォクレスが悲劇に書いたように、ゆっくりと消え去ろうとしているのです。

・「武人の国」は永遠ではない
近年になって、人々の生活は大幅に豊かになりました。
今日において私たちが望むのは、武士に要求されたよりも、はるかに貴く、はるかに大きなものです。
今や孔子のいう人の思想や、おそらくは仏教の慈悲の思想をも超えて、キリスト教が説いている愛の観念のような広いものが必要となる時代になっているのでしょう。
化し、武士道に反対する人が増えるばかりではなく、武士道を敵視する人まで増えてきました。
いよいよ武士道には、名誉ある死に備えるときが来たのかもしれません。
1871年の廃藩置県の公布によって封建主義が公式に廃止されたことが、武士道の弔いの鐘を知らせる信号だったのでしょう。

・武士道の精神は不死鳥のように蘇る
日本が最近の清国との戦争に勝ったのは、村田銃とクルップ砲のおかげといわれています。
またこの勝利は、近代的な学校制度の成果ともいわれています。
使い古された格言を繰り返す必要もないのでしょうが、活力を与えるものは精神であり、それなくしては最良の器具も、殆ど益することがないのです。
最大限に改良された銃と大砲でも、使う人がいなくては発射することはできません。
最も近代化された教育でも、臆病者を英雄にすることはできません。
最も先進的な思想を持った日本人でも、一皮むけば、そこにサムライが現れます。
名誉と勇気、そしてすべての武士たちが大事にした徳目は、私たちの大きな遺産です。
そして現在の私たちに課せられた使命は、この遺産を守り、古来の精神を損なわないことなのです。
未来の私たちに課せられた使命は、その範囲を広げ、全ての行動や人間関係にそれを応用していくことなのです。

・いま私たちに、その「爽やかな香り」は届いていますか?
守るべき教義も形式も持たない武士道は、朝の風に吹かれて散っていく桜の花のように、やがて完全に消えてしまうかもしれません。
しかし、完全なる消失がその運命であるということは、ありえないのです。

武士道はその象徴である花のように、四方からの風に吹かれて散っていきます。
けれどもその香りは人類を祝福し、人生を豊かなものにしてくれるのです。
何年もの年が流れ、武士道の習慣が葬り去られ、その名さえ忘れられる日が来ても、その香りは空中を漂っています。
「路辺に立ちて眺めれば」、私たちは遥か遠くの見えない丘から漂ってくる、その爽やかな香りを、いつでも嗅ぐことができるのです。
クエーカー教徒の詩人、ホイッティアーが、美しい言葉のうちにこう歌ったように。
「いずこよりか知らねど、近き香気に、感謝の心を旅人は抱き、歩みを停め、帽子をとりて、天空よりの祝福を受ける」

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