第4章 勇、すなわち勇敢で我慢強い精神
・「死するべき時に死する」が真の勇
勇気は、義のために行使されるのでなければ、美徳としての価値はないとされてきました。
孔子は『論語』の中で、「義をみてせざるは勇なきなり」と勇気の定義づけをしています。
この格言を肯定的に言い直すならば、「勇気とは正しいことをなすことである」となるでしょう。
あらゆる危険を冒し、命を懸けて死地に飛び込むことは、よく勇気と同一視されます。
しかし、武士道においては、そうではないのです。
その価値に値しない死は、「犬死に」と呼ばれていました。
「生くべき時は生き、死するべき時に死するを真の勇というなり」
こう述べたのは水戸の徳川光圀でした。
武士として生まれた若者で、「大勇」と「匹夫の勇」について聞かなかった者はいないでしょう。
勇猛、忍耐、大胆、勇気といった心性は、若者の心によりたやすく訴えます。
「勇気があること」は若者にとって最も人気のある資質となり、皆競い合ってそれを習得しようとしたのです。
少年たちは、まだ母親の懐を離れる前から、軍事物語を繰り返し聞かされます。
小さな男の子がどこかを痛めて、泣き叫んだらどうなったでしょう?
母親は武家のしきたりに従って、彼を叱ります。
「そのくらいの痛さで泣くなんて、なんて意気地なしなのでしょう」
「あなたが戦場に出て、腕を斬られるようなことがあったら、どうするのですか!」
・武家の子が「千尋の谷に突き落とされた」意味
親は時々、残酷とも受け取れるような厳しい方法で、子供の胆力を鍛えたのです。
食物を与えなかったり、寒さにさらしたり、それらは忍耐を養うための非常に効果的な試練だと考えられました。
月に一度か二度、学問の神様のお祭りの時に、何人かの子供たちが集まり、徹夜で夜通し大きな声を出して輪読をさせられることもありました。
斬首が公開で行われていた時代には、その恐ろしい光景を見に行かされ、夜の暗闇の中、一人でその場所を訪れ、さらし首に証拠の印をつけて帰ってくるように命じられることもあったのです。
・太田道灌、源義家、上杉謙信、誇り高き武士たちの勇気
勇気の精神的側面は、落ち着き、つまり、心の平静さとして表れます。
平静さとは、静止した状態での勇気。
一方、勇猛果敢なる行いは、動いている状態の勇気ということになります。
本当に勇敢な人間は、常に冷静であり、物事に動じず、何ものにも乱されることはありません。
激しい戦闘の中にあっても冷静さを保ち、大災害の中にあっても心の状態を維持し続けます。
史実として伝えられる話に、江戸城の基を築いた太田道灌の話があります。
彼が槍に貫かれたとき、道灌が歌の達人であったことを知っていた刺客は、一突きとともに和歌の上の句を詠みました。
まさに息を引き取ろうとした道灌は、その上の句を聞き、脇腹の致命傷をものともせず、下の句を続けたのです。
十一世紀半ばに起こった衣川の戦いです。
このとき東軍は破れ、大将だった安倍貞任は逃亡します。
追跡してきた源義家が彼に迫ると、大声で「きたなくも敵に後を見するものかな、しばし返せや」と叫びます。
貞任が馬を止めたので、義家は声高らかに下の句を詠みました。
するとその言葉がまだ唇から発せられているうちに、貞任は上の句を詠み返したのです。
それを聞いた義家は引き絞っていた弓を突然ゆるめ、馬を引き返し、打ち取ろうとしていた敵を逃がしたのです。
この奇妙な振る舞いの理由を尋ねられると、「敵に激しく追い詰められながらも、決して心の平静さを失わない勇士を、辱めるようなことはできない」と答えました。
十四年もの間、武田信玄と戦ってきた上杉謙信は、彼が病気で亡くなったことを聞くと、「最高の敵を失った」と涙しています。
信玄の領地は山間にあり、海からは離れています。
そこで塩の供給を東海道の北条氏に頼ってきたのですが、北条氏は信玄と交戦状態でなかったにもかかわらず、彼を弱らせようとするため、この必需品の交易を断ってしまいます。
そんな信玄に「我らは交戦中ではあるが、それに関係なく十分な塩を送るように命じた」という書状を送ったのです。
更に謙信は付け加えました。
「我の公と争うところは、弓矢にありて米塩にあらず」
勇気がこの高みに達したとき、それは「仁」に近づきます。