武士道 第5章


第5章 仁、すなわち哀れみの感情

・王者の持つ徳分、それが仁
愛情、寛容、他人への同情、哀れみの情は、常に至上の美徳と見なされ、人間の魂の中にある最も気高い性質とされてきました。
それは二つの意味において、王者にふさわしい徳分だったのです。
一つは気高い精神と見なされる多くな性質の中でも、一番王者に相応しいものと考えられたこと。
もう一つは、王者だからこそ、そうした徳を持っていることが相応しいとされたということです。
孟子も孔子も、何度となく人を治める者の絶対条件は、「仁」にあるということを繰り返しています。
孔子は言います。
「上の者が仁を好んだ場合に下の者が義を好まないということはない」
孟子はこの師匠の言葉を補足して、次のように言います。
「仁を持たずして一国を得る者はいるが、仁がないのに天下を治めることのできた者は、いまだかつていない」
孔子も孟子も、王者たる者の絶対条件を定義するときに、「仁は人なり」ということを述べているのです。

・最も勇敢な者は、最も優しいもの
高潔な「義」と、厳格なる正義を、どちらかといえば男性的なものであるとすれば、「慈愛」は女性的な優しさと説得力を持っています。
しかし日本人は、むやみに慈愛に心を奪われないように、必ず公正さと義を心において物事に対処するように戒められてきました。
そのことを表現した、伊達政宗の「義に過ぎれば固くなる。仁に過ぎれば弱くなる」という言葉は、しばしば引用されます。
武士の慈愛は決して衝動的なものではなく、正義を行うことに配慮することが前提になっています。
相手を生かすか殺すかまで判断させる力を、その背景には兼ね備えていたのです。

・最強のサムライが戦場で見せた慈愛の心
武士は自分たちが武力を持ち、それを行使できる特権を持っていることを誇りにしていました。
その一方で、孟子が愛について次のように教えたことにも同意しています。
「仁をなす者は、杯一ぱいの水で燃えている車一台分の薪を救うことができる。」
孟子はまた、「思いやりの心こそ、仁というものの出発点だ」ということも述べています。
だから仁を持った人間は、苦しみ悩んでいる人の味方であらねばなりません。
弱者、劣者、敗者に対する慈愛は、サムライにとって特別に賞賛されてきたものです。

1184年須磨の浦の戦いで、熊谷次郎直実は、敵を追いかけ、その逞しい腕で敵を組み伏せました。
そして兜を荒々しく剝ぎ取ると、そこに現れたのは、まだ幼い顔の少年だったのです。
驚いた直実は、そのままこの場を立ち去るように命じます。
けれども少年は逃げるのを拒み、双方の名誉のため自分の首をはねるように頼みました。
直実は今まで何度も敵の命を奪ってきましたが、どうしても斬ることができません。
何度も命を粗末にしないことを請うが、どうしても聞き入れようとしません。
そのうち味方の軍が近づく足音が聞こえてきました。
直実は叫びます。
「名もなき人の手にうしなわれたまんよりも、直実が手にかけ奉る。」
この戦いが終わり直実は凱旋しますが、もはや勲功にも名誉にも興味はなくなり、武士の身分を捨て、頭を丸め僧衣を着ることに決め、諸国行脚をして残りの人生を終えます。

・死地へ赴く武士が詩歌を愛したのはなぜか?
武の精神と鍛錬で知られる薩摩藩には、若者に音楽を習わせる習慣がありました。
音楽といっても、私たちを猛虎のような行動に駆り立てる、ラッパや太鼓の響きではありません。
琵琶による哀しくも優しい旋律で、血気にはやる心をなだめ、血生臭い修羅場から私たちを遠ざけるようなものだったのです。
また武士たちの間では、自分の内面に育むため、詩歌を読むことが奨励されました。
日本の詩歌の奥底には、哀しさと優しさが深く存在しているのです。
我が国の簡潔な詩は、とっさの感情を表現するのに、特に適していました。
戦場を行進する武士が馬を止め、矢筒から筆を取り出して、歌を詠むことはよくありました。
命が尽きた武士の胸当ての中から、歌をしたためた紙が見つかることもよくあることでした。
ヨーロッパではキリスト教が、激しい戦闘の恐怖の中においても、哀れみの感情を呼び起こすことを教えています。
日本ではその役割を、音楽と詩歌が担ったのです。

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