『礼』
・最も効率的で、最も優美、それが「礼」
礼儀正しさとマナーの良さは、日本を訪れた外国人の旅行者が気づくことのようです。
ただ、もし「上品であることという評判を落としたくない」というだけで実行されるのであれば、礼儀というのは大した特質ではありません。
本当の礼儀というのは、「他社の感情を思いやる心」が目に見える形で表れたものでなければならないのです。
礼というのは、ほとんど愛に近いものになります。
私たちは敬虔な気持ちで、「礼は寛容にして慈悲あり、礼は妬まず、礼は誇らず、驕らず、非礼を行わず」といわなければなりません。
ディーン教授(アメリカの動物学者)は、人間の六つの要素をあげていますが、礼に最も高い地位を与えていることを疑問視する人はいないでしょう。
日本の場合、礼式の作法の中に、あまりにも不要な枝葉末節があることは確かに私も認めましょう。
けれども、細かく規定された礼式も、私はくだらないものとは考えません。
それは確実な結果を達成するために、長年の観察から「最も効率的で、最も優美である」として生まれたものだからです。
茶道の作法は、茶碗、茶杓、茶巾などを用いて、はっきりした手順を定めています。
初心者はこれを退屈に思うでしょう。
けれども、その方法が結局は最も時間や労力を節約するものであり、言い換えれば最も効率的な力の配分をしていることになります。
・厳格な作法を通してこそ到達できる高い精神
究極的な本質は、全て一つに統合されます。
それは最もよく知られた礼儀作法の流派の主唱者である小笠原清務の、次の言葉で説明されます。
「礼道の要は心を練るにあり。礼をもって端座すれば兇人剣を取りて向かうとも害を加うことを能わず」
別な言葉で言えば、正しい礼儀作法を絶えず実践することによって、人間は身体のあらゆる部分における機能を完璧に整えることができるのです。
そうやって自分の身体と外部環境を調和させることで、精神によって肉体を支配することができます。
最も単純なことが芸術となり、また精神文化になったという例で、私は日本の「茶の湯」をあげることができます。
茶の湯の第一の目的は心の平静、感情の明瞭さ、立ち居振る舞いの落ち着きといったものをつくり出すこと。
疑いなくそれらは、正しい思考や正しい感情を生むための第一条件です。
騒々しい世俗の光景と雑音から遮断された、塵一つない清らかな小さい部屋。
それ自体が人間の思考を、俗世界から切り離します。
西洋の広間にあるような、魅惑的な絵画や骨董品の数々はそこにはなく、唯一ある「掛軸」は、色彩の美しさよりも構図の優美さで目を引くものになっています。
洗練された趣向を極限にまで高めるのが茶の湯であって、装飾の類は、宗教的な畏怖をもって排除されるのです。
戦争やその噂が絶えなかった時代に、茶の湯が千利休という一人の思慮深い隠者によって大成されたという事実は、この習慣が単なる暇つぶしではなかったことを、はっきり証明しているでしょう。
・日本人はなぜ、自分を「へりくだる」のか
日本の事を表面的に書いた多くの記述を読むと、我が国におけるこの言い回しを、文字面だけ見て誤解しているように思います。
これがどんな場合かといえば、例えば贈り物をされたときです。
アメリカでは贈り物をするとき、受け取る相手に対してその品物を褒めたたえます。
一方、日本ではその品物を「つまらないもの」と控えめにいったり、あえて軽んじたりするのです。
アメリカ人の心情はこうしたものでしょう。
「これは素晴らしい贈り物です。そうでなければ、あなたに差し上げようなどと思いません。素晴らしいものでない贈り物をしたら、あなたを侮辱することになるのですから。」
これに対して、日本人の理論はこうなります。
「あなたは素晴らしい人間です。その素晴らしいあなたに対し、どんな贈り物をしたってそれに見合うものなどないでしょう。ですからこの贈り物は、私の誠意として受け取ってください。どんな品物でも、それがあなたの価値に見合っているなどといえば、あなたを侮辱することになってしまうのですから。」
この二つの考え方を並べると、そこにはよく似た考え方があることに気づくでしょう。
アメリカ人は贈り物をするときに、その品物の事を言う。
日本人は贈り物をするときに、その精神の事をいう。
ただそれだけの違いなのです。
日本人の礼の意識は、私たちの振る舞いの最も小さな部分にまで表れています。
だからといって、その中の一番些細なことを取り上げて、礼そのものを批判するのは本末転倒でしょう。