
我が兵法である「二天一流」は、水にヒントを得た「利方の法(勝つ方法)」を実践することから、「水の巻」と名付け、ここにその太刀論の神髄を書き記すものである。
以下に私が書き記すことを、一言一句たりともないがしろにすることなく、深く吟味し会得してもらいたいものだ。
全ての道に言えることであるが、いい加減な気持ちで学ぼうとすると、本来の道から外れてしまうことが多い。
そうした過ちを犯さないためには、大所高所(広い視野と高い観点から全体を見通すこと)に立った読み方をすることが大切である。
そのことを念頭に置いて、ここに書いてあることをいつも自分自身の身に当てはめて理解することを心がけてほしい。
読むだけで十分とか、習うだけで満足などと決して思わず、書かれたことだけを真似すればよいというような横着な考えも捨ててもらいたい。
必ず何かを習得するのだという強い意志をもって、勘どころを見つけ出すように努め、常に当事者の感覚で、日々工夫し、研鑽に励むように。


ー 以上に述べたように、我が二天一流の兵法の道は、朝な夕なに修練を積むことによって、自然と視野も広がり、「合戦および個人戦の兵法」として世に伝えるのである。
我が兵法を学ぼうと思う人には、道を行う次の「九か条の戒め」を心がけてほしい。
第一条 よこしまな心を起こさず、正しいことを考えること。
第二条 兵法の道は鍛錬にあるということ。
第三譲 諸芸に触れること。
第四条 様々な職能の道を知ること
第五条 物事の利害損害を知ること。
第六条 物事の本質を見極められる眼力を持つこと。
第七条 目には映らないところも推理し、察知すること。
第八条 微細な変化・動きも見逃さないこと。
第九条 役立たないことはやらないこと。
およそこうしたことを心にかけて、兵法の道を鍛錬しなければならない。
我が二天一流の兵法を極めようとする気力をみなぎらせ、真の兵法の道に励んで、腕力で相手に打ち勝ち、眼力でも相手を圧倒し、さらなる鍛錬を重ねることで全身を自由自在に動かすことができれば、肉体的にも相手を圧倒できるし、またこの道に習熟していれば、闘魂でも相手をしのげるはずだ。
いわゆる心技体の全てで相手を凌駕できていれば、どうして負けることがあろう。
また、優れた部下を持つ点で勝ち、多くの軍勢を動かす点で勝ち、一身を正しく律する道でも勝ち、藩を治めることでも勝ち、領民を安堵させることに勝ち、世の中に礼儀作法を徹底するということでも勝つというように、いかなる道においても、どんな相手にも負けないという道理を悟って、我が身を正しく保ち、名を上げるように刻苦勉励するのである。
それが、我が二天一流の兵法の道である。
1645年5月12日 新免武蔵


ー 兵法の拍子のこと
どんな物事にも「拍子」というものがあるが、なかでも「兵法の拍子」は、鍛錬していないと体得するのは難しい。
世の中によく知られている拍子では、能の舞の拍子、楽人が奏でる管弦音楽の拍子などがあるが、これらは拍子がうまく調和することで見事な拍子となる。
武芸の道を見ても、弓を射たり、鉄砲を撃ったりすることから乗馬に至るまで、全てに拍子・調子がある。
拍子は重要だ。諸芸能でも、拍子をないがしろにすることはありえないし、目に見えないものにも拍子がある。
「兵法の拍子」にも、様々な種類がある。
まず自分自身に合う拍子は何であるかを知り、合わない拍子は避け、大小・遅早の拍子の中で自分に合う拍子を知り、「間の拍子」を知ることで、相手の拍子に乗ることなく、逆に相手の拍子を狂わせることに専念することこそが、兵法の道である。
この「相手の拍子を崩す拍子」を体得しない限り、その兵法は確実なものにはならないのだ。
兵法を駆使した戦いでは、その折々の敵の拍子を知り、敵の意表をつく拍子を意識して目には見えない「空なる拍子」を我が二天一流の兵法の知略で生み出して相手に勝つのである。
本書のどの巻にも、もっぱら拍子のことを書き記すので、その内容をじっくり読みこなして、よく鍛錬してもらいたいものである。


ー 兵法で武具の長所を知るという事
合戦用の武具は、どんなものでも戦う場所や状況に応じて、その武具の持つ利点を心得た使い方をしないと威力を発揮できない。
脇差は、狭い場所など敵との距離が接近している場面で有利なことが多い。
太刀は、どんな場所の勝負でも、だいたい有利である。
薙刀は、戦場では槍に劣るところがある。
槍が先手なのに対して、薙刀は後手に回るからだ。
槍・薙刀は戦場で威力を発揮する武具として合戦上では重要だが、共に狭いところでは利点が少ない。
弓は、合戦上における軍勢の進退状況にもよるが、槍隊その他の諸隊との連係動作の点で初動が容易であり、特に平地での合戦に有利である。
しかし、城攻めとか、敵との距離が三十六メートルを超えているようなケースでは役に立たない。
弓をはじめとする武芸は、見た目には百花繚乱だが、実践には無理である。
城内では、鉄砲の右に出る武具はない。
しかし、いったん合戦に突入すれば不適である。
弓の威徳の一つは、放った矢を目で確認できる点だ。
これに対し、鉄砲の弾丸は目に見えないところが物足りない。このことをよく心してもらいたい。
武具は、偏った好みで選んではいけない。
過剰であることは不足していることと同義である。
決して人真似をせず、自分自身の信念に沿い、自分の体にぴったり合って違和感のないものが一番である。
将・兵を問わず、好き嫌いだけで武具を選ぶのは良くない。
この事を胸に強く刻んでおくことだ。


ー 「兵法」の二文字に秘められた含蓄に精通すること
この道では、刀の使い方に秀でたものを「兵法者」と世間では言ってきた。
諸々の武芸の道の上達者で、弓を巧みに射るものを「射手」といい、鉄砲が上手く使いこなせれば「鉄砲撃ち」と言い、槍が上手に使えるものは「槍使い」と言い、薙刀に習熟した者を「薙刀遣い」と言っている。
しかし、刀の道に精通した者については「刀遣い」とか「脇差使い」とは言わない。
弓・鉄砲・槍・薙刀は、みな武士の武具であり、いずれも兵法の道に変わりはないのだが、兵法と呼んでいるのは刀だけであって、それ相応の説得力のある理由があるのだ。
霊剣・聖剣という言葉があるように、刀には威徳とも呼ぶべき霊験あらたかなものがあり、その威徳を身に付けることで世を治めたり自身を修めたりできるようになることから、刀を兵法の根源と見なすのである。
刀の威徳を身に付ければ、一人でも十人を相手にして勝つことができる。
かくのごとく、我が二天一流の兵法では、一対一の戦いも万対万の戦いも本質は同じと見なし、武士が心得るべき法を全て兵法と総称しているのである。
道ということについて述べるならば、儒学者・仏道者・茶道家・礼法家・能役者らにもそれぞれの道があるが、それらは武士の道には含まない。
武士の道ではないと言っても、それぞれの道について広く知ることは、どんなことにも通じることを意味する。
いずれの道においても、人間として自分自身を鍛錬することが肝心なのである。
