
ー 我が流儀を二刀流と名付けること
私が二刀流を編み出したわけは、武士ならば将であれ兵であれ、誰もが腰にじかに二本の刀を差すからである。
我が国においては、そのいわれを知っているいないにかかわらず、大小日本の刀を腰に佩びることは武士そのものである。
武士たる者が一命を懸けて勝負しなければならないときは、身に佩びた武具を一つ残らず役立てたいものだ。
武具を使うことなく、ただ腰に差したまま死んでしまうことは、何とも不本意である。
しかし、両手に物を持つと、右手も左手も思うように動かしにくくなる。
刀を片手で操る習慣がそれまでなかったからである。
槍・薙刀などの大きな武器は両手で持つしかないが、刀・脇差は、本来どちらも片手で持つ武具なのだ。
両手で刀を握って使うやり方は、本来の剣の道ではないのである。
片手では敵を斬り殺しにくいという場合は、両手を駆使して仕留めにかかればよい。
手間暇かけて思案することの程ではないのだ。
いずれの武具も使い慣れることが大事で、刀も片手で振り続けていれば勘どころを把握できるようになり、素晴らしい振りになってくるのである。
刀の道というのは、ただ早く振ればよいというものではなく、そのことは第二巻の「水の巻」に記すので、そこを読んで理解してもらいたい。
刀は広い場所で振り、脇差は狭い場所で振るのが有利だ。これが基本である。
我が二天一流の兵法が目指してきた神髄は、長い刀でも勝ち、短い刀でも勝つことである。
したがって、持つ刀の長さを定めていない。
どんな刀でも勝てると思う精神が、我が二天一流の道なのである。


一 この兵法の書を五巻に分けた理由
我が二天一流の兵法の道を五つに分け、一巻ごとにその精髄を教授すべく、「地」「水」「火」「風」「空」の五巻にして以下に書き記すのである。
最初の「地の巻」では、兵法の道の概略、および、我が二天一流の見方や考え方を説き明かしている。
通り一遍の剣術を学んだだけでは、真の剣術の道は極めがたい。
道作りに例えるなら、まず地面を平らにならし、その上に石を敷き詰めてしっかり基礎固めをする。
そういった意味合いで、私は第一巻を「地の巻」と名付けたのだ。
第二巻は「水の巻」である。
生命の源である水を兵法の手本とし、心を水にするのである。
「水は法円の器に従う」と言われるように、水は四角い器にも丸い器にも合うように自在に形を変える。
そんな水の、青く美しい色や清らかに澄んださまを心に強く宿しながら、我が二天一流の兵法をこの「水の巻」に書き記すのである。
第三巻は「火の巻」である。
この巻では戦いについて書く。
火には大小強弱があり、火勢のすさまじさや変化の激しさがあり、それが戦いに通じるからだ。
戦いには、一対一の勝負もあれば、万対万という規模の大集団戦もあるが、心がけることは同じだ。
どちらの戦いも、ある局面では大胆に、ある局面では繊細に考えなければならない。
この意味をよく吟味すべきである。
この「火の巻」で扱う戦いは、火のように変化が激しく、一瞬を争うので、日々の鍛錬を怠らず、十分習熟した上で、平常心で敵と対峙することが、兵法の極意となる。
そうした観点での戦いや勝負のありようを、「火の巻」に書き示す。
第四巻は、「風の巻」である。
この巻を風とした理由は、我が二天一流とは関係のない他流派の兵法について書くからだ。
風ということでは、昔風、今風、様々な家風等があるので、世間に存在する兵法とそれらの流儀の技を明確に書き記すのである。
これが「風の巻」だ。
他の流派を知らずして、己の技を上達させることは難しい。
我が二天一流の兵法は、道理と技の点でも他の諸流派とは明らかに一線を画している。
ついては、世間一般の兵法がどんなものであるかを知らしめるために、「風の巻」として他流派の事を書き記すのである。
第五巻は「空の巻」である。
この巻を「空」とした理由だが、空という以上、奥もなければ入口もないという意味だ。
空が何であるかを知るには、勝つ道理が理解できたら、一度その道理から離れるとよい。
我が二天一流の兵法の道を学ぶと、やがて自在に動けるようになり、人並外れた技能もおのずと習得でき、機が熟せば「拍子」についての理解も深まる。
そしていつしか、我が手に剣を握っていること、あるいは、剣が我が手にあるということすら頭から消え、一種の無我の境地となって敵と勝負しているようになる。
これが空の道である。
意識することなく自然に真の兵法の道へ入っていく方法を、この「空の巻」に書き記す。


一 兵法の道
兵士は、棟梁の下で働く大工に例えられる。
大工の世界では、自分が使う大工道具は自分で研ぎ、自分で揃え、それらを「大工箱」に入れて自分で持ち運ぶ決まりになっている。
そして現場では、棟梁の命令・指示に従って、端々に至るまで手際よく仕上げること。
それが大工としての道である。
大工は、自らの手を汚すことで仕事を覚え、寸法にこだわり続けているうちに、やがては棟梁と呼ばれる立場の地位に就けるのである。
大工の心得として重要なのは、よく切れる道具を持ち、仕事の合間にそれらを研ぐことである。
その道具を使って、厨子(仏具)・書棚から机・行燈(照明)・まな板・鍋の蓋の類に至るまで、巧みにこしらえるのが大工の腕というものだ。
兵士には、このような大工の心掛けが欠かせないのだ。
このことをよく吟味してもらいたい。
この道を学ぶことを志すのであれば、私が本書に記すことをただ漠然と心に留めるだけでなく、その内容を念入りに検討し、理解する必要がある。


一 兵法の道を大工に例えること
兵法を大工の道に例えると、大将は、大工の棟梁として天下国家の「ものさし」(価値判断の尺度)をわきまえ、領国の法を正し、先祖代々の家訓を遵守することが重要で、これが「棟梁の道」ということになる。
大将としての本質という点では、大工の棟梁も武士の棟梁も全く変わりがない。
棟梁が大工を上手く使うコツは、彼らの職人としての腕が「上・中・下」のどれに属するかを把握し、それぞれのレベルに応じて、ある者は床の間、ある者は戸・障子、またある者は敷居・鴨居・天井といった具合に大工を使い分けることだ。
腕が悪いと判断したら、床板の下に横木を張る仕事をさせ、もっと腕が劣る大工にはくさびを削らせるといった按配である。
このように、各人の能力に応じた的確な人材配置を行えば、おのずと作業効率は上がり、手際よくいくものである。
建築現場での作業効率、手際の良さといった点、ささいなことでも揺るがせにしない姿勢、使いみちを知るということ、意欲の高・中・低を判断すること、勢いをつけさせること、限度・限界をわきまえることなど。
兵法の道理とは、そういうものなのだ。


一 兵法の道という事
中国でも日本でも、この道を極めるものを、古来、「兵法の達人」と呼びならわしてきた。
武士たる者、この法を学ばないということがあってはならないのだ。
古来、「十能・七芸」と呼ばれる伝統的な芸事や芸道があり、兵法は「利方(勝つ利を生む方法)」と言われて、その一つに数えられてきた。
利方という以上、漠然と剣術をやっていればいいというものではないのだ。
通りいっぺんの剣術の技を追い求めているだけでは、剣術の何たるかを知ることはできないし、まして兵法の神髄に迫ることなどできるはずもない。
そもそも人が世の中を渡っていくには、「士農工商」という四つの異なる道があることをわきまえなければならない。
一つ目は、農業の道である。
農民はいろいろの道具を備え、季節の変化を絶えず気にしながら日々を送っている。
それが農業の道というものである。
二つ目は、商売の道だ。
例えば酒造業を営む者は、酒作りに必要な様々な道具を入手し、出来上がった酒のよしあしに応じた利益を得ることで生計を立てている。
それが商いの道だ。
三つ目の道が、武士の道である。
武士の場合は、様々な武具を準備し、それぞれの武具の正しい使い方に精通することこそが、武士たる道である。
四つ目の道は、工の道だ。
例えば大工の道では、多種多様の道具を考案して作り、それらを巧みに使いこなし、行きつく暇もなく仕事をして世を渡っていく。
以上が士農工商による四つの道である。
兵法は、大工の道に例えると理解しやすい。
大工という字は大きいという字に工むと書くが、兵法の道もまた、「大いなる巧み」を目指している。
そういう共通点もあるので、大工になぞらえて表現するのである。
兵法の道を学びたいと願うなら、この本に書いたことを読んでよく考え、「師弟関係は、針と糸」と心得、師が針になり、弟子は糸となって、たゆまず稽古に励むことだ。
