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五輪書 地之巻4

一 兵法の道

兵士は、棟梁の下で働く大工に例えられる。

大工の世界では、自分が使う大工道具は自分で研ぎ、自分で揃え、それらを「大工箱」に入れて自分で持ち運ぶ決まりになっている。
そして現場では、棟梁の命令・指示に従って、端々に至るまで手際よく仕上げること。
それが大工としての道である。
大工は、自らの手を汚すことで仕事を覚え、寸法にこだわり続けているうちに、やがては棟梁と呼ばれる立場の地位に就けるのである。

大工の心得として重要なのは、よく切れる道具を持ち、仕事の合間にそれらを研ぐことである。
その道具を使って、厨子(仏具)・書棚から机・行燈(照明)・まな板・鍋の蓋の類に至るまで、巧みにこしらえるのが大工の腕というものだ。
兵士には、このような大工の心掛けが欠かせないのだ。
このことをよく吟味してもらいたい。

この道を学ぶことを志すのであれば、私が本書に記すことをただ漠然と心に留めるだけでなく、その内容を念入りに検討し、理解する必要がある。

五輪書 地之巻3

一 兵法の道を大工に例えること

兵法を大工の道に例えると、大将は、大工の棟梁として天下国家の「ものさし」(価値判断の尺度)をわきまえ、領国の法を正し、先祖代々の家訓を遵守することが重要で、これが「棟梁の道」ということになる。

大将としての本質という点では、大工の棟梁も武士の棟梁も全く変わりがない。
棟梁が大工を上手く使うコツは、彼らの職人としての腕が「上・中・下」のどれに属するかを把握し、それぞれのレベルに応じて、ある者は床の間、ある者は戸・障子、またある者は敷居・鴨居・天井といった具合に大工を使い分けることだ。
腕が悪いと判断したら、床板の下に横木を張る仕事をさせ、もっと腕が劣る大工にはくさびを削らせるといった按配である。
このように、各人の能力に応じた的確な人材配置を行えば、おのずと作業効率は上がり、手際よくいくものである。

建築現場での作業効率、手際の良さといった点、ささいなことでも揺るがせにしない姿勢、使いみちを知るということ、意欲の高・中・低を判断すること、勢いをつけさせること、限度・限界をわきまえることなど。

兵法の道理とは、そういうものなのだ。

 

五輪書 地之巻2

一 兵法の道という事

中国でも日本でも、この道を極めるものを、古来、「兵法の達人」と呼びならわしてきた。
武士たる者、この法を学ばないということがあってはならないのだ。

古来、「十能・七芸」と呼ばれる伝統的な芸事や芸道があり、兵法は「利方(勝つ利を生む方法)」と言われて、その一つに数えられてきた。
利方という以上、漠然と剣術をやっていればいいというものではないのだ。
通りいっぺんの剣術の技を追い求めているだけでは、剣術の何たるかを知ることはできないし、まして兵法の神髄に迫ることなどできるはずもない。
そもそも人が世の中を渡っていくには、「士農工商」という四つの異なる道があることをわきまえなければならない。

一つ目は、農業の道である。
農民はいろいろの道具を備え、季節の変化を絶えず気にしながら日々を送っている。
それが農業の道というものである。

二つ目は、商売の道だ。
例えば酒造業を営む者は、酒作りに必要な様々な道具を入手し、出来上がった酒のよしあしに応じた利益を得ることで生計を立てている。
それが商いの道だ。

三つ目の道が、武士の道である。
武士の場合は、様々な武具を準備し、それぞれの武具の正しい使い方に精通することこそが、武士たる道である。

四つ目の道は、工の道だ。
例えば大工の道では、多種多様の道具を考案して作り、それらを巧みに使いこなし、行きつく暇もなく仕事をして世を渡っていく。

以上が士農工商による四つの道である。
兵法は、大工の道に例えると理解しやすい。

大工という字は大きいという字に工むと書くが、兵法の道もまた、「大いなる巧み」を目指している。
そういう共通点もあるので、大工になぞらえて表現するのである。

兵法の道を学びたいと願うなら、この本に書いたことを読んでよく考え、「師弟関係は、針と糸」と心得、師が針になり、弟子は糸となって、たゆまず稽古に励むことだ。

五輪書 地之巻1

そもそも兵法とは、「武家の法」である。
つまり、「武家の兵学・軍学・用兵術(戦闘術)の総称」である。
したがって、武将たるものは、特にこの道に精進するべきであり、たとえ士卒(家臣)の身分であっても、知っておかなければならないのである。

まず、「道」という概念に触れるが、世間でよく知られている道と言えば、仏道(仏教)や儒道(儒教)がある。
さらには、歌人・茶人・弓道家・その他もろもろの学芸技術に至るまで百花繚乱の観があり、人それぞれがいずれかの道の稽古に取り組み、心のおもむくままに楽しんでいる昨今である。
しかし、「兵法の道」に限っては、好きこのんで行っている人は稀である。
たとえこの道の才能がなく、不器用であったとしても、武士たる者は誰でも、身分相応に兵法の道に励まなければならないのだ。

武士が兵法の道に励むときは、どんな場合でも、人より優れることが基本条件になる。
例えば、一対一の斬り合いに勝つこと、あるいは数人を相手に戦って勝つことが、主君のためであり、自分自身のためでもあり、その結果として自身の名声が高まり、立身出世の糸口にもなるのである。
これが、「兵法の功徳」というべきものである。
習う方は、いついかなる時でも実践に役立つという気持ちで稽古し、教える方は、どんな場面でも役立つように手ほどきをするということ ー この精神こそが、兵法の目指す真の道である。

五輪書 地之巻 

地之巻 初めに

私は自分の兵法の道を「二天一流」と命名し、長年鍛錬してきたが、思うところあって、初めて書物にして後々まで残したいと決意するに至った。

私は播磨国(兵庫県)出身の武士、名は新免武蔵守藤原玄信、齢は積もり重なって六十になる。
私はまだ若かったころから兵法の道に精魂を傾け、十三にして初めての勝負をした。
それ以降諸国をめぐり様々な流派の剣豪と出会って六十数回勝負を決したが、一度たりとも敗者となることはなかった。

その後、より高度な道理に辿り着こうとして、朝な夕なに鍛錬し精進を重ねたところ、自然な形で兵法の神髄を体得できた。
それは私が五十歳頃の事であった。
それ以降は、さらに追い求める道はなくなり、ただ日々を送る毎日であった。

私なりの兵法の流儀を、馬術、槍術などの諸芸のやり方にも当てはめてきたので、人生のすべてに師匠というものはない。
この書を執筆するに際しても、仏法・儒教の古来の言葉を引用したりすることはせず、また、軍記・兵法に記されている昔のことも用いず、ただ我が二天一流の見解によってのみ真実を追求することとし、天と観世音菩薩を我が心を映す鏡として筆をとり、書き始めるのである。

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